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東京学芸大学附属世田谷中学校 緑友同窓会

〜緑友会報〜

特別インタビュー

     

小泉英明さんのプロフィール

1962年 東京学芸大学附属世田谷中学校卒業
1965年 東京都立日比谷高等学校卒業
1971年 東京大学教養学部基礎科学科卒業
1971年 株式会社日立製作所入社
1976年 東京大学理学博士
1999年 日立製作所基礎研究所所長就任(〜2001年)
2003年 同研究開発本部技師長就任(〜2004年)
2004年 役員待遇フェロー就任

日立製作所 小泉英明フェロー(13回生)に聞く

 国分寺の「武蔵野」の自然に囲まれた日立製作所中央研究所に、脳科学者としてもご活躍で、『日経サイエンス』などで、ノーベル賞候補として取り上げられていらっしゃる、
小泉英明フェロー(13回生)をお訪ねいたしました。
  聞き手 梅澤典子 伴 澄子 松村由起子(19回生)

*会報を見てテニスに

聞き手 附中の日曜テニスに参加されているそうですが、いつ頃から?
小 泉 2010年頃からだと思うのですが。附中の会報を見て、こんなこともされているんだ、と。時たまお邪魔しています。いつも温かく仲間に入れてくださり、感謝しています。
聞き手 会報が役立って、嬉しい限りです。
小 泉 家には、この会報が3通くるんです。私と子供たち2人にも。

*ヘビで先生を

聞き手 附中生時代の思い出をお聞かせいただけますか?
小 泉 もう、とにかく楽しくて楽しくて。私はけっこう悪ガキだったものですから、京都への修学旅行でも、旅館の部屋から夜中に抜け出して、また戻ってきて、平気の平左で寝ていたり・・・
 ちょっとキビシイ先生がいらしたんですね。それでとにかくあの先生の弱味を見つけて、今度は本当に先生をビックリさせようと、クラスの皆で考えていました。
 扉に黒板消しを挟むことや、捻った縄でつるしたヤカンで水を撒き散らすことなどは、しょっちゅうやっていたし、先生も怒りながらも楽しんでいらっしゃったみたいで。
 もっと何か違うことをと。そうしたらアオダイショウの大きいのが捕まったんですよ。あの先生、ヘビがすごく苦手だと言ってたからやってみようということになって、教壇の机の上に、アオダイショウをボール箱に入れて置いておいたんです。そんな箱、普段はないですよね。で、先生が入っていらして、「何だこれは?」と言って、パッと開けたらアオダイショウが出てきて。本当にね、「ギャー!」って、すごい声をあげて教室から飛び出していっちゃったんです。ホントにお嫌いだったみたいです。
聞き手 よくそんなヘビが捕まりましたね。

*駒沢公園今昔

小 泉 当時は近くにいっぱいいましたから。タヌキなんかもいたし。実は駒沢公園のある場所は、駒沢というくらいで、昔は沢だったんです。土地も起伏があり、池や沼もあって、戦前は天皇陛下もプレーをなさったというゴルフ場でしたが、戦時下、ゴルフが禁止になると、そのまま荒れ地になりました。私が生まれたのもそんな頃で、ザリガニを捕ったり、オタマジャクシを捕ったり、魚を釣ったりして遊びました。なにしろ自然だらけでした。
聞き手 想像できませんね。
小 泉 そうしたら駒沢球場という野球場を作るというので、埋め立てたり、切り崩したりしたんです。水草の生えている沼もあったんですけれどね。その駒沢球場というのは、東映フライヤーズの本拠地で、選手が近くに下宿していましたから、選手の人たちにキャッチボールなどして遊んでもらいました。そのうちオリンピックということで、周囲も含めて全部、造成工事をして、それで今の形になったわけです。ちょうど附中生時代にその工事をやっていました。

*いつまでも仲良しクラス

聞き手 担任の先生は?
小 泉 始めは音楽の田中正先生で、そのためか音楽祭などで、よくピアノの伴奏をやらされました。そのあとは中島穣先生でした。
 とても仲の良いクラスで、卒業後も泊まりがけのクラス会で、尾瀬や山中湖、日光の中禅寺湖などに行きました。尾瀬の時はすごい出席率でした。私ともう一人が幹事で、下見に行き、全部歩いて大丈夫なのを確かめてきました。ところが当日、雨が降ってしまい、当時は布のテントだったもので、荷物が水を含んですごく重くなっちゃって。 大きな荷物はみな男子が持つ、と決めていたので、男子はみなフーフー言ったり、足がつったりして、ヘトヘトになってしまいました。反対に女子は元気いっぱいで。でも、中島先生を始め、全員無事に帰ってきました。

*実験大好き、昔も今も

聞き手 やはり理科の授業がお好きでしたか?
小 泉 もちろん嫌いということはありませんが、それよりも自宅に実験室を作ったりして、勝手に自分で遊んで楽しんでいました。いろいろな化学実験をやりました。でも物理の実験が一番好きでした。 日比谷高校に行ってからも、まあ東大に行ってからはだんだん専門的にはなってきましたが、やはり同じように楽しんでいました。日立製作所に入ってからも、本当に附中の時の延長で楽しませていただいているような感じなのです。

*MRI開発から脳科学へ

聞き手 MRIを開発なさったそうですね。
小 泉 ゼーマン効果といって、レントゲンの次にノーベル物理学賞をとった、ゼーマンとローレンスが電子を発見する時に使った実験があるんです。電子の発見に役立ったものだったんですが、それが環境計測に使える、ということに気づいて、日立製作所に入ってすぐ、偏光ゼーマン原子吸光光度計というのを開発しました。 その次に、原子核のゼーマン効果を使ったMRI(磁気共鳴イメージング)の開発に携わりました。私はまだ三十代になりたてだったのですが、多い時には七十人位のチームのリーダーになりました。 装置として使えるようになったMRIを病院に納入して、脳神経外科や神経放射線科のお医者様と一緒に脳を見ているうちに、だんだん脳の分野に近寄っていきました。
 また、病院のMRIの修理のための実験中に、ひょんなことからMRAの原理を発見しました。MRI血管描画というもので、脳動脈瘤や脳梗塞を発見する脳ドックで使われるあれです。 それを使って、血管の中の血液の流れを見ていると、脳の中の神経が活発に活動するところは、エネルギーをたくさん必要としますから、そこの血流量が増えるんです。さらには、fMRI(機能的磁気共鳴イメージング)により、脳のどの部分が、今、活発に活動しているかが、画像化できるようになったのです。

*光トポグラフィ

小 泉 すると人間の考えていることの一部も見えてくることがわかってきました。 ということは、私たちの心に関する問題、頭の中で感じたり、考えたりする、それが測れるようになってきた。それをもっと自然な状態で測れるようにしようとして考え出したのが、光トポグラフィというものです。磁気共鳴装置だと、大きな音のする狭い空間にじっとしていなくてはなりませんが、光トポグラフィなら、頭に光のプローブをつけてしまえば、動き回ることもできます。脳がどんどん発達している赤ちゃんにつけて、その途中過程も、害を与えることなく知ることができたのです。

*温かい心を育む

聞き手 最後に、今一番なさりたいことは?
小 泉 デカルトは「我思う、故に我あり」と、また、パスカルは「人間は考える葦である」と言ったように、人間は思ったり、考えたりしますね。それは脳の働きなのです。 本当の意味で人間を知るために、脳を知ることがとても大事なので、その研究をさらに深めたいということが一つ。それと倫理の問題です。世の中が自己中心的になりがちななか、相手の立場に立てる、思いやりのある温かい心を、どうやったら子供の時から育むことができるか。 脳を知ることによって、温かい心の源はどこにあるのかを知って、子供たちが温かい心を持つためのお手伝いをしたいなぁ、と思っています。 そういう温かい心を育まれた子供たちが、だんだんと未来の社会を作っていけば、より過ごしやすい社会ができてくるのではないかと、そう思うからです。
聞き手 長い時間、貴重なお話をいただき、ありがとうございました。

*インタビューを終えて

 終始、穏やかなゆったりとした口調で、優しくお話しいただきましたが、附中生当時のことになると、目がいたずらっぽく輝き、ご本人もおっしゃっていたとおり、なかなかやんちゃな少年であったことがうかがわれました。

 「科学というのは積み重ねであって、誰かがいきなり何か新しいことを見つけたり、やったりするのではなく、歴史的な、もう亡くなった方がたも含めてのみんなの共同作業だと考えたほうがよいと思います」というお言葉が、とても印象的でした。